初代Drコトーは?
皆さん、漫画やドラマ・映画で「Dr.コトー診療所」というお話はご存知でしょうか?
このお話のモデルは鹿児島県下甑島(しもこしきじま)の手打診療所で33年間にわたり島民
3,000人の診療に献身した瀬戸上健二郎医師がモデルになっていると言われています。ですが、
さらに53年間にわたり八丈島住民の健康管理に専念した村田助六(道珍斎)がある意味では
初代のDrコトーと言えるのかもしれません。
備前岡山57万石城主の宇喜田秀家は、17歳の時に豪姫(前田利家の4女)と結婚し、26歳の若さで
豊臣家五大老の1人に就任。関ヶ原の合戦に西軍として参加するも敗戦し薩摩まで落ち延びた挙句に
捕縛され、加賀藩の嘆願により極刑は免れたものの34歳で八丈島へ流人1号として流されました。
その際に同行したのが、長男、次男ほか家来12人と加賀藩医の村田助六(当時33歳)でした。
火山で形成された八丈島は米が取れず、島民は主食としていたのが粟やヒエなどの雑穀。副食は大根、
かぶら、茄子、人参、アシタバ、山芋などの野菜と魚介類、海藻でした。加賀藩からは2年に一度
米70俵、衣類、医薬品、雑貨などが送られてきたものの、日頃は秀家も雑穀と野菜を混ぜたものを
口にしていたようです。長男は58歳で病死、次男も60歳で病死するも、秀家は50年にわたる配所
生活を送ったのちに84歳でこの世を去りました。流人生活で異例の長寿を保ったのは、雑穀と野菜と
魚肉を常食とする食生活と畑仕事、そして村田医師の健康管理が支えとなったに違いありません。
村田医師は秀家の死亡後も加賀藩からの帰国許可が降りず、在島53年、享年86歳で一生を終えました。
村田医師の子孫も代々島にあって、明治3年までの265年間、帰参が叶わなかったのです。
罪人でもないのに流刑地で過ごす羽目になり、どんな気持ちで過ごしていたのか想像もできません。