清水郁太郎先生
世の中には太郎とつく人は非常に多いと思っています。桃太郎、金太郎、浦島太郎は有名どころですが、
私の中ですごい日本人だなと思う人に今日はスポットを当てたいです。なぜこの方を知ったのかというと
4月4日にブログで取り上げたベルツとスクリバですが、日本は優秀な日本人をドイツに留学させて、
お抱えの外国人教授(スクリバ)に代らせることを企図していたのです。つまり、その時代超優秀で、
実際、東京大学医学部の1回生の主席卒業とのことです。明治17年(1884年)の今日、6月21日に、
東京大学医学部産婦人科初代教授の清水先生が国内では初の卵巣摘出術に成功しております。
東京大学医学部の1回生であった清水先生は最優秀で第1回文部省官費留学生に選ばれて、3年間
ドイツとオーストリアで参加と婦人科を学びました。留学中の清水先生は志願してフリードリッヒ・
ヴィルヘルム大学のマルティン教授の私設クリニックで臨床経験を積んで、厳冬深夜の往診も厭わない
精勤ぶりは周囲を驚かせたのです。帰国し明治17年6月には医学部教授となり、26歳の若さで日本初の
産婦人科教授となったのです。就任2日後に当時は危険な大手術であった卵巣嚢腫手術を行なって
30日後に無事退院させ、日本初の成功例となったのです。その後半年間に4例の卵巣嚢腫摘出術を行い
4例ともに全治させ他院させているのです。ですが、その年の12月末に肺結核を発症し、療養のため
熱海に転地しました。折しも大学で卵巣嚢腫兼妊娠の患者がいて、清水教授は外科のスクリバに手術を
依頼したものの術後死亡し、清水教授も肺炎を発症し明治18年2月に亡くなっています。享年27歳。
教授在任期間は8ヶ月余り。清水教授なき後には産科はベルツが兼任し、婦人科はスクリバが担当して
7例の卵巣嚢腫摘出術を行うも全員死亡。スクリバは東京の空気が悪いとして、日光まで出かけてさらに
2例の手術を試みるもいずれも亡くなってしまい、以後一切この手術は行わなかったとのことです。
結核治療が進歩していて清水教授が存命であれば、多くの人を救ったに違いありません。歴史にIFは
ありませんが日本の産婦人科会は惜しい人を失っていますね。残念でなりません。