2025.09.05

野口の帰朝

以前の千円札はそうです。野口英世でした。野口英世と言えば苦労して研究に研究を重ねて・・・と

評価する人が多い中、お金を湯水のように使ってしまい放蕩三昧のように評価する人もいます。

私自身いろいろなものを読んでいるとすべて本当のように聞こえてきます。私の大好きな作家渡辺淳一

の「遠き落日」は野口のことがわかりやすく紹介されています。でもおもしろくてすぐに読めます、

「はやくきてくたされ。いしょ(一生)のたのみて。ありまする。(略)はやくきてくたされ。

いつくるトおせ(教え)てくたされ。これのへんちち(返事)まちてをりまする。ねてもねむれません。」

これは明治45年(1912年)1月23日に福島県三ツ和局で投函された英世の母から英世への手紙です。

この手紙を受け取ったニューヨークの野口英世は何度も何度も読み返したことでしょう。

それでも彼は日本に帰りませんでした。お金もなかったのですが、スピロヘータ(梅毒の原因)研究

の真っ最中だったのです。やがて3年が過ぎて、大正4年(1915年)4月に帝國学士院恩賜賞受賞の

朗報にも帰ろうとしませんでした。そんな彼を動かしたのはやはり母の存在でした。親友の石塚三郎が

送ってきた母シカの写真、老いやつれたその姿は野口の心を激しく揺さぶったのです。

大正4年9月5日に横浜に上陸(当時は汽船での移動)し、9月8日に帰郷しました。翁島駅から人力車を

断って徒歩で山道を三城潟へ八幡神社に参拝し、全30戸のあいさつ回りをし、菩提寺での墓参、最後に

家で待つ母の元へ。手順は母の言いつけ通りだったようです。10日間を故郷で過ごして東京に戻り、

野口は改めて母と恩師夫妻を招いて、東京見物の後、関西旅行に出かけました。過密な日程のわずかな

合間に大阪箕面市の料亭「琴の家」での孝養ぶりは語り草にもなったとのことです。

昭和30年(1955年)、その箕面市に野口の銅像が建てられて記念式典が催された際に、「野口博士母子

に捧げる歌」が小学児童によって披露されたのです。その一番の歌詞はこうです。

「故郷遥かに思いは千里 ロックフェラーの顕微鏡(かがみ)に映る 恋し面影やつれた写真 

愛の手紙よ母は倖せか」だそうです。やっと野口英世が返ってきたのは110年前の今日だったのです。

その後も精力的にニューヨークのロックフェラー研究所で研究を重ね、黄熱病で亡くなるのは53歳です。