お玉ヶ池種痘所
今日から168年前の今日、安政5年(1858年)5月7日に開かれた「お玉ヶ池種痘所」があったとされる東京・千代田区岩本町2丁目7−12にはお玉ヶ池種痘所跡の石柱が立っています。この石柱のレリーフには「お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さであったのが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史跡としてお玉稲荷が祀ってあるだけです。(略)この標柱の場所は勘定奉行川路聖護の屋敷内に設けられたお玉が池種痘所があったところで・・・」と記されているのです。ここから北へ100m秤の岩本町3丁目交差点にも「お玉が池種痘所記念 東京大学医学部」の石碑があります。碑文には「お玉が池種痘所の記念に/一八五八年・安政五年五月七日江戸の蘭学者たちが資金を出しあってこの近くの川路聖護の屋敷内に種痘所を開いた。これがお玉ヶ池種痘所で江戸の種痘事業の中心になった。ところがわずか半年で十一月十五日に類焼にあい下谷泉橋通りへ移った。この種痘所は東京大学医学部の初めにあたるのでその開設の日を本学創立の日と定め一九五八年・昭和三十三年五月七日創立百周年記念式典を挙げた。昭和三十六年文化の日 東京大学医学部」とあります。82名の江戸の蘭学者たちがなけなしの金580余両をかき集めてできた種痘所がわずか半年で煙と消えたのです。現在の価値で言うと230万から580万くらいと幅があります。彼らの窮状を救ったのは種痘所同士の三宅艮斎(ごんさい)と進行のあった銚子の豪商濱口梧陵(ごりょう)。梧陵が合わせて700両を寄付したことで再建が成り立ったのです。つまり梧陵なしでは東大医学部の開学はなかったも同然といえます。昨今何かと事件がある東大医学部ですが、そんな泥臭いはじまりだったのですね。