忠臣蔵の医学
昨年9月にも「あの日、松の廊下で」という小説尾をご紹介しましたが、お正月期間中に
池波正太郎さんの「おれの足音 大石内蔵助」を読みました。上下巻でしたが、あっという間に
読むことができました。鬼平犯科帳や剣客商売、雲切仁左衛門の印象が強かったのですが、お勧めです。
実は、斬られた吉良上野介の治療経過を克明に記した道有日記によると、上野介の額の切創は斜めに
11㎝あり、骨まで達していたそうです。背中にも約20㎝の切創がありましたが、浅手だったようです。
額の傷は熱湯で洗い6針縫い、背中の傷は3針縫合しただけで済んだようです。治療中、上野介は気力を
失ってときどき生あくびをしたことを受けて、治療にあたっていた外科医は朝食を摂っていなかったので
気力が失せた。つまり低血糖による気力減退があるので、食事をあたえればよいと判断したようです。
外科医は一膳を用意していただき、上野介に自ら食べさせたところ気力がたちまち回復して全身状態が
改善されたとのことです。的確な判断と迅速な処置によって上野介は救われたのですね。
この外科医、栗崎道有という人で8代将軍吉宗の侍医を勤めたようです。道有の栗崎流外科はのちに
山脇流と名を改めて、直系の子孫は愛知県の高浜市で山脇薬局を開業されているとのことです。
内匠頭の刃傷沙汰に5代将軍の綱吉は激怒して、即日切腹を命じたわけですが、この処断があまりに短慮
であったように思います。母の桂昌院が京都の八百屋の娘であり出自にコンプレックスを抱き、その母に
高い身分を授ける働きをして、吉報を伝えるために朝廷から下向してきた使いの人々を迎える直前に
めでたい場が血で汚されて怒り狂ったものと思います。綱吉が健常な精神の持ち主であればこんなことに
ならなかったのかもしれませんね。ちなみに、8代将軍の吉宗の母は紀州の村娘だったのですが、
吉宗は意に介せず、堂々と将軍職を果たしております。さすが「暴れん坊将軍!」ですね。
忠臣蔵の真因は、実に綱吉の強いコンプレックスに端を発しているとも言えます。加えるならば、
大石内蔵助は吉良邸に討ち入りすべきではなく、真の仇、将軍綱吉に狙いを定めるべきだったかもしれません。