2025.03.24

桜田門外の変

資料によると安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(今でいう千代田区霞ヶ関)にて

前夜降った大雪の路上で幕府大老の井伊直弼が暗殺される事件が起きました。赤穂浪士の討ち入りも

12月で雪が降っていたらしいです。歴史が動く時には何か演出されているような気もしますよね〜。

この時、井伊直弼を襲ったのは18名でほとんどが水戸浪士とうち1名が薩摩藩士だったようです。一方、

井伊家のディフェンスは勇敢に戦ったのが数人で、その他60余人は、恐怖のあまり逃げ去ったとの

ことです。結果井伊直弼はあっさりと暗殺されてしまう訳なのですが、実は井伊直弼は剣の達人だった

ようなのです。だから、簡単にやられてしまうことに違和感がありますが、浪士達が切り込む際に

短銃を1発放つことで合図にしていたようです。しかも、弾が井伊直弼の下半身を直撃していたのです。

後に、彦根藩医が死体検案をした際に左の太ももから腰に抜ける貫通銃創を報告しているのです。

カゴに乗っていた井伊直弼は胡座をかいていて腰を貫いた際に、脊髄神経を損傷したのでは無いかと

考えられます。そうでなければ、カゴから降りて得意の居合術で浪士数人を切り倒していたでしょう。

この事件に使用された短銃は、ペリー来航の際に土産で幕府に送られた短銃であり、これを手に入れた

水戸藩が倣って試作品を作りそのうちの1丁が暗殺に用いられたのでした。しかも、水戸藩主の

徳川斉昭らは、井伊直弼に謹慎処分を受けていたにもかかわらず、過激派藩士の脱藩を知ると、

「水戸藩の浪士が貴殿を狙っている。十分用心されたし」と手紙と水戸製短銃2丁を送ったのですが、

「大老ともあろう者が、このような飛び道具で脅されるわけがない」とせせら笑い、徳川斉昭の警告を

カチ無視したわけです。当日、江戸城の沿道には多くの大名家臣達が並んでいたにも関わらず、

惨劇を目撃しても、井伊側に加勢しようとするものはおらず、いかに彼が日頃から憎まれていたことが

伺えます。松下村塾の吉田松陰は山口県の萩にいながらも、井伊大老の暗殺計画をはじめ、最新情報を

手にしていて、暗殺計画は相当練りに練っていたようなので、井伊直弼は情報戦で敗北したという

事になるのかも知れません。憎まれっ子世に憚らず!ですね。